本当の暴力と愛情

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 今の人はすぐに他人や親が手を出すと、暴力だ、暴力だ、と言います。

 何をもってして本当の暴力だというのでしょうか。

 

 私は心に「憎しみ。」「恨み。」「つらみ。」などをもって手を出して殴ったりすることを本当の暴力だと思っています。

 

 でも私は相手から「愛情。」や「心。」ををもってなして殴るのは暴力だと思っていません。

 

 それが私の考え方である。

十連休は疲れる

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 今日で十連休も終わりですね。  や~長かったです。 逆に疲れました。 

 祝日はあってもいいけど長~い祝日も困りますんね。 自分は体が丈夫でないので返って体調を壊してしまったような気がします。 

 私はこの十連休どこにも行きませんでした。 なぜかというと体調を崩してしまいずっと寝ていたからです。 体の元気な人はいいですね。  

自然が人間を支配している。

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イサクのいけにえ

 今の人間は高ぶりがあまりもひどすぎる。  私の人間を見る視野では社会のルールをほとんど無視している。  しかも若者の模範にならなければいけない年寄りまでが。  そして自然界を大手をふるって生きている。  なんと愚かな人間の姿であろう。  今の人間はそれが激しすぎる。  簡単に言うと善人と悪人に全く別れている。  

 今の人間は自然界に生きているけれども動物、植物を支配している。  しかし自然を人間は支配できない。  なぜかというと自然災害に立ち受け出来ないではないか。

 人口が増加するとともに森林伐採などをして動物の住み家をなくしている。  そして人間は住宅やホテルなどを造っている。  それだけ動物の住み家は人間に追い払われている。  いい例が熊が人間のいる住み家に現れるではないか。

 しかし愚かというがそれに人間は全く無知である。  この前の東日本大震災がそれである。  災害に対して備えをしろと言ってもそれは数日後には底をつく。  人間はつまり自然を支配することは出来ないのだ。  むしろ逆に自然に我々人間は支配されていることに気が付かなければならい。  今もまだその大地震にいまだに避難生活をしていることに我々裕福に暮らしている人間はそれを十分知らなければならない。

 自然は無限の力を持っている。  それに対して人間は化学など技術などでそれに立ち向かっている。  なんと人間は愚かであろうか。  私はそれに虚しさを感じている。

障害者だけど

 

  私は一障害者です。しかしその他にもいろいろな病気を持っています。

 今日もインターネットでいろいろ探し求めました。そうして難しい病名を見つけました。

 障害にはいろいろな障害の種類があります。自閉症とか、発達障害とかその他いろいろです。

  しかし私自身の場合は障害だけではないことに気が付きました。

 たとえばたとえばなにもしていないのにつかれたり、ひろうかんがましたり、何もしていないのに疲れて異常な疲労感を覚えたり体がだるくなってすぐにゴロゴロしたくなってしまいます。 

 自分でもその病気を知ったときなんと難しい病名だろうと思いました。

 脳性脊髄何とかという難しい病名です。障害以外にもこんな複雑な、病気を抱えているとは夢にも思いませんでした。

 障害者の作業所に行っていますが今は自分の体の様子を見て仕事をやろうと思っています。 むなしい風が自分の体を透き通っていくみたいです。 その上満足に仕事の出来ない日々です。

 こんな日々が大波のように自分を襲ってきます。 私はどうすればいいのでしょうか? そんなことばかり考えています。

 もう人生六十を過ぎています。 ですから人生の折り返し点をとうに過ぎています。

 それでも私はあきらめていません。 いつか社会で働きたいといつも思っているからです。

 でも今の状態ではとても難しいです。 決して今の自分に満足せず常に上を目指して生きたいからです。 今私には難しい決断が迫っていると思います。 このままでいいのかと。

 現実の世界を見つめて生きたいからです。 私には希望があります。 生きるとはどういうことかを学ばなくてはいけないからです。 それが私の人生だと思っているからです。

 このまま作業所に満足していていいのでしょうか? そうした疑問が私に雷鳴が響き渡ります。 人生には未来があるではありませんか。 それをつかまなければいけないといつも思うからです。

 私は惰性で生きたくありません。 それに自分の素質や才能を見つけたいのです。

 それを見つけられないのがとても悲しいです。 それでも残された余命を生きて行かなければなりません。 自分はこの世に何かを書き残したいのです。 別に偉い人になろうとは思ってはいません。

 限られた人生を有意義に生きて行きたいだけなのです。 

 せっかくこの世に命をいただいたのだからそれは当たり前のことではないでしょうか。 このまま死にたくない。 無駄死にしたくない。 自分には何かやらねばならないことがあるのではないかといつも思っていてそれを探しています。

 世間知らずの自分がどこまでやれるかはわかりません。 でも何かをやり残したいのです。 

 病気を背負い、障害を背負っていますがそれでも何かをしなければなりません。

 焦らず、ゆとりをもって、何をなすべきか今からでも遅くはないと、自分にそう言い聞かせて探したいのです。

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障害者が障害者らしく生きるには

f:id:hototogisu1chang:20181114032205p:plain 障害者には目に見える障害と目に見えない障害がある。それを健常者が何人理解しているであろう。私には関係がないという無関心な人が大勢いるのではなかろうか。それほど障害者には一般社会人から見捨てられているのだ。だから障害者を見てもただ黙ってみないふりをしている人が大勢いる。それが日本人の社会だ。ただ今点字ブロックが引かれているがただそれだけで何の意味もない。そしてなぜか日本人は障害者にどうしても声をかけられない。何も遠慮をする必要はどこにもないのに......。そこが日本社会は欧米と比べると非常に遅れているところだ。そしてまたそれだから障害者は障害者の世界に閉じこもっている。障害者はもっともっと健常者に近づかなければいけない。それを社会人が避けているのだろうか。いつの間にか目に見えない壁のようなものが存在する。なぜそうなってしまったのであろう。私にはそれがとても理解できない。一対一でなぜ付き合えないのであろうか。社会人はなかなか仲間に入れてくれない。とても寂しく辛いことだ。しかし社会人にはその障害者すら知らない人が大勢いるのではなかろうか!まるで社会の中で障害者の居場所がないではないか。だから小さい作業所で極端に細々と生きているのだ。それをどれだけの社会人が知っているであろうか?また障害者の世界で働く社員(社会人)も大変だ。障害者と一緒に働きまた自分の仕事もすいなければならない。そうした人はどういう目で障害者を見ているのであろうか。手がかかるだろうと思っているであろう。体は一人前でも心はまだまだ子供で社会人とは極端に知識や知恵が遅れている。そうした所が相手だから大変な仕事だ。障害者の面倒を見るということは一筋縄ではいかない。自分も見ているとそれがよくわかる。知恵や知識が極端に遅れているから何を言い出すかわからない。それにもいちいち対応をしなければいけない。大変な仕事だ。それを彼らはどのくらいわかっているのだろうか?私も一障害者だがその所をついつい考えてしまう。何とか自分たちで知識や知恵を身に着く得るにはどうすればいいのだろう。それには何年もの時間がいる。しかし社会人と分裂してしまっている彼らには世の中の常識やルールを知るわけもない。だからそこを社会人に私は問いたいのだ。なるべく声をかけてほしい。そして障害者との付き合い方を知ってもらいたい。私はいつもそういったところを考えている。目に見えない壁などなくして共有して生きて行ってほしい。そして障害者との付き合い方をしってほしい。何とか両社で協力し合って生きる世の中は作れないものなのであろうか。そうして生きることを教えてほしいのである。障害者は視野が狭くまた中には視野さえ知らない子もたくさんいる。だからこそ社会人が障碍者に生きることを時間をかけて教えてほしいのだ。私はそういった世の中を求めたい。

絶望と希望

f:id:hototogisu1chang:20181004201127j:plain    私は一障害者です。このごろよく思うのですが社会人についてですがみんな障害者たちは自分たちの心(情緒)というものが全然ありません。今のままでは我々障害者は今のままでしか生きられないとしか思えてなれないのです。なぜかというとみんなは今のままで満足しているようなあるいはもう社会へは出られないのではないかとしか思えないのです。社会に対する絶望感とかあるいは悔しさがまったく感じられないのです。障害者だっていつかは必ず社会を見返せられるのだという気持ちがまったく感じられないのです。むしろみんなは希望感よりも絶望感のほうが強く思われます。みんながみんなそのように思えてなりません。わたしはそれが残念でたまりません。私の障害は高次脳機能障害と言って健常者と障害者のはざまにある障害です。ですから灰色な障害者なのです。今このような障害が今多く増えているようです。みんながみんな障害者ではありますけれどもいつか私は自分の障害を社会に見返してやるぞという気持ちが強くなればといつも思っています。そうすれば必ず社会は我々障害者に顔を向けてくれるのではないかと思います。ダウン症自閉症精神障害、その他いろいろ障害にはたくさんありますが、そういう彼らが漠然と作業所に行って漠然と仕事をするだけでは全くダメです。そこに私はみんなが気づいてほしいところなのです。そういう気持ちを持てば必ず悔しさがわいてきて必ず絶望感が消えて希望感へとつながるのではないかと思うのです。正直言って私は体の体調が思わしくなく作業所へは全く言っていません。ですからこんな偉そうなことは言えませんが私はみんなに己の心の中にある情緒というものを育ててほしいのです。そして情緒とはどういうことかということをみんなで話し合ってほしいといつも思っています。それをみんなで育てて必ず社会に我々障害者を見返す気持ちを多く持ってほしいのです。すごいなあ!という気持ちを社会人に対して持たせてほしいのです。何年かかってもいいです。次の世代までかかってもいいではありませんか。そういう心がけで生き貫いてほしいのが今の私の気持ちです。なんとかみんなに今の自分の気持ちが通じたらどんなにいいかわかりません。そういう希望を持たせるのが我々障害者ではないでしょうか。

未来の向こうには何があるか

f:id:hototogisu1chang:20180424231336j:plain  壁を作ってはならない。今の時代障害者と健常者が自然と壁を作っているように思える。障害者に障害者の世界があって健常者には健常者の社会が共有されて生きていない。たとえば障害者には自分たちに健常者の社会で生きて行くことはできないのだと諦めている人が大勢いる。だからいつまでたっても偏見や健常者の関心がこちらをいつまでたっても振り向いてくれないのだ。障害者よ自分たちの世界だけで生きることはできないのだとはそう思うなよ。自分たちだっていつか健常者の世界で生きることの希望を持てよ。そうしないと世の中がいつまでたってもその壁がありともに交わりあって生きて行くことができないのだ。障害者は何とかして健常者にこちらを振り向かせる努力をしなければならない。自分たちだけの背菓子を作っては絶対ならない。そうしないと社会が成り立たないではないか。壁を今こそ取っ払え。そうして生きる希望を見出せ。小さくなっているとか健常者に向き合ったら一歩引くような行為はやめろ。私は一対一で健常者と障害者が仲良く広い世界の中で生きられるのではないかと思う。偏見は心無い人にとって一生壁が取っ払われることはない。でもその先には新しい社会があって楽しいことや嬉しいことがたくさんあるはずだ。我々障害者だってこの世に生きているんだと自分たちの存在を健常者に訴えようではないか。そして生きることの素晴らしさを知ろうではないか。我々はその先を見なければならないと思う。我々障害者にだって生きる権利はあるのだ。一対一で交われる世界を作ろうではないか。そして私たちの未来を健常者に訴えようではないか。そうしないといつまでたっても健常者や世間はいつまでたっても我々に関心を持ってくれないと思う。障害者よ壁を作るな。絶望している皆はそこから這い上がれ。そうしないと自分たち以上に苦しんでいる人が報われない。自分たちだけのことを考えずそうした自分たち以上の弱者のことを考えないといけないと私は思う。そして我々は生きて行かなければならない。障害者よ。病院で入院している人たちのことを考えたことがあるか。今自分たちが作業所で働ける幸せをもっと考えて掘り下げて考えないといけない。自己中心的にならずに大勢の人のことを考えよう。多くの重たい病で苦しんでいる人のことを考えよう。そして自分たちの未来のことを考えよう。病院で入院している人が一日でも早く退院出来ることを考えようではないか。そして彼らのために生きて行こではないか。みんなの心や精神のことを考えて目に見えない障害者に自信をつけてあげようではないか。大勢の人が作業所で働ける自分に自信をつけてあげようではないか。それが私たちの務めだと私は思います。